「相合い傘」  いつものように、藤次郎は自分の会社で作業していた玉珠と連れ立って帰宅の途につい ていた。このルートだと、藤次郎の降りる駅の方が玉珠の降りる駅よりも手前にある。  「それじゃぁ」 と言って電車を降りようとする藤次郎が、袖に引っ張られるような感触を覚え振り返ると、 玉珠が藤次郎の袖をつかんでいた。  「…?」  藤次郎は、しばし藤次郎の袖をつかんでいる玉珠の手と顔を交互に見比べていた。そし て玉珠が何か言いたげな表情をしているのを感じると、藤次郎は電車から降りるのをやめ た。そして藤次郎を車内に残したまま、ドアが閉まった。  「どうした?」  「…送って」  玉珠は小声で言った。  実は、玉珠がこんなにしおらしく言ったのには、訳があった…今日の退社時のこと…藤 次郎が会社の玄関でまだ社内で化粧を直している玉珠を待っていると、雷と共に土砂降り の雨に見舞われた。藤次郎は鞄から折りたたみ傘を取り出して待っていると、そこに上杉 景子が現れた。  景子は、玄関に来て初めて雨が降っているのに気が付いた。一目散に玄関の出口まで小 走りに来て、  「うっわーー、最悪!傘持ってないよぅ」 と大声で言った。そして、周りをキョロキョロ見回して、藤次郎の姿を見つけると、  「あら、萩原さん…」  一瞬、自分が大声を出したのに恥じらいを感じながらも、藤次郎の持っている傘をめざ とく見つけ、  「萩原さん、駅まで送っていってくれませんか?」 と、ねだった。藤次郎は戸惑ったが、可愛い後輩を見捨てるわけにもいかず、  「わかった。入ってけ」 と言って、傘を広げた。  「萩原さん、ありがとうございます」  藤次郎は駅で景子を見送ると、小走りに会社に戻った。  藤次郎が会社に戻ると、そこには、やはり土砂降りの雨を立ち往生している上司の宗像 幸子の姿があった…  「あら、萩原君…ちょうどいいところに。駅まで送ってくれない?」  藤次郎は物言いたげな表情をしていたが、上司の言葉には逆らわず、  「はい」 と言って、幸子の上に傘を差し掛けた。しかし、幸子は駅までの道の途中にあるコンビニ を見つけると、  「萩原君、ここまででいいわ。わたしはコンビニで傘買って帰るから…早く戻らないと 玉珠さん心配してるわよ」 と言って、コンビニに飛び込んだ。それを見送ることなく、藤次郎は走って会社の玄関に 戻った。  そこには玉珠が待っていて、傘を持って居るのにずぶ濡れで自分を迎えに来た藤次郎を 見て驚いた。  「ちょっと、どうしたの?藤次郎」  心配する玉珠に対して、  「…実は」  藤次郎は、今までの出来事を玉珠に話した。玉珠はその話を聞いて驚くと同時に、「藤 次郎らしい…」と思った。  しかし、その思いも最初の内で、電車に乗っている間に玉珠は藤次郎に対して、自分は どの位置にいるのかと不安になってきた。  そこで、無意識にこの行動に出たのである。  「かっ、傘がないの。送ってて!」  折角藤次郎を引き留めた玉珠であったが、自分の心境を藤次郎に悟られまいとして、し どろもどろになりながらも言った。しかし、藤次郎はそんなことに全然気が付かずに、  「あっ、そうか」 と、あっさり言ったので、玉珠は自分の努力は何だったのかという憤りと、何かを期待し た自分に損したような感じを覚えた。  「雨は当分止みそうにないね。傘が小さいから、駅の喫茶店に寄って雨が弱くなるまで 待とうか?」 と言う藤次郎の言葉に、玉珠はハッと我に返り。  「いやぁ…いや、それよりも、藤次郎ずぶ濡れだから、早く帰って、わたし所で着替え よう」 と、玉珠は本当に藤次郎が風邪をひきやしないかと心配した。しかし、  「うん」 と、素直に言う藤次郎に対して、玉珠のフラストレーションは上がる一方だった。結局、 玉珠は、移動中は藤次郎に自分の不安をぶつけられずに帰ってきてしまった。しかし、い くら鈍感で朴念仁の藤次郎でも、玉珠がいつもと違うことを少しは感じ始めていた…  藤次郎は玉珠に押されるような格好で、玉珠の部屋に上がると  「着替えだしておくから、シャワー浴びて」 と、玉珠にせかされそのまま風呂場に押し込まれた。  「藤次郎、着替えここに置くからね」  「おう」  シャワーを浴びている藤次郎に対して、玉珠は風呂場の扉越しに言った。なにかと世話 を焼いてくれる玉珠を見て  「…なんだ、いつもと変わらないじゃないか」 と、独り言を言った。藤次郎が風呂場から出てくると、  「藤次郎、わたしもシャワー浴びるから、先にやってて」 と言って、藤次郎と入れ違いに玉珠は風呂場に入っていった。居間のテーブルには、ビー ルと簡単な肴が乗っていた。でも、藤次郎はそれに手を着けずにテーブルの前に座って玉 珠がシャワーを浴びて出てくるのを待っていた。  「…あら、先にやってても良かったのに…相変わらずね」  玉珠はタオルで髪を拭きながら風呂場から出るなり、いつもの藤次郎の律儀さに呆れて 言った。  その後、藤次郎は玉珠が髪を纏めたり簡単な身支度を終えるのを待って、いつものよう に二人で乾杯した。その後は、とりとめのない話題で盛り上がるのであるが、今日は違っ た…玉珠が自分が聞きたいことが素直に言えずに会話が発展しないため、まるで初心者の お見合いみたいな会話になっていた。  もし、玉珠が自分の不満(藤次郎が自分をどう思っているか)を素直に藤次郎に聞くこ とが出来れば、朴念仁の藤次郎のことであるので、「無論、お玉が一番」との即答で解決 するのであるが、玉珠は普段の藤次郎と幸子と景子の様子から、悪い方向へと想像が悪化 して、聞くのが怖かったのである。  そのため、玉珠の酒を飲むペースが普段より速くなり、不覚にも藤次郎より先に酔っぱ らってしまった。酔っぱらって気が大きくなった玉珠は、酔った勢いで藤次郎に軽くヘッ ドロックをかけながら、とうとう本音を言った。  「ねぇ…藤次郎。景子ちゃんは藤次郎にとって何?」  「上杉君は可愛い後輩。まぁ妹みたいな娘だね」  いつものことなのと、玉珠がかけているヘッドロックは本気でかけていないので、藤次 郎は玉珠にされるがままで、返事をした。  「そう?」  「そう」 と、藤次郎は言い切った。  「…そう」  そう言って、玉珠は不満そうな顔をした。どうやら、藤次郎は景子が藤次郎に持つ特別 な気持ちを理解していないらしい…「鈍感!」と思いつつも、藤次郎が景子の気持ちに気 づかないで居て欲しいとも思った。玉珠は気を取り直して、  「じゃ、幸子さんは?」  「幸子さんは上司。学生時代に色々教えて貰った大切な友達」  「色々って?」  「あっ…うん、勉強とかお酒の飲み方とか…」  藤次郎は一瞬、口ごもった。そこをすかさず、  「嘘」  「えっ?」  「私知ってるのよ」  「なっなにを…」  藤次郎は狼狽した。  「九州にいるとき、色々あったんでしょ?」  「幸子さんに聞いたの?」  「うん、デートしたとか、何度か誘ったけど、藤次郎がわたしのことが忘れられなくて 誘いに乗ってこなかったとか…」  「うん…」  藤次郎はシュンとした。  「いいのよ…幸子さんはもう人妻。それに藤次郎がわたしのことを忘れてくれなかった から…」  「うん」 と、藤次郎が返事をしたら、玉珠は藤次郎の首から腕をはずした。そして、  「藤次郎、無理しないでね」 と言って、玉珠は藤次郎にしがみついた。  「…こうして俺のことを一番心配してくれるお玉が一番」 と、藤次郎は背後から藤次郎を抱しめている玉珠の手に自分の手を重ねて言った。その一 言で玉珠は報われた気がした。 藤次郎